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「戊辰150年・命の種もみ・会津只見 」


戊辰戦争(北越戦争)で敗れた長岡藩は、八十里越え峠を越えて会津只見へ避難した。

<奥羽の義 戊辰150年>(26)長岡藩民 命懸けの逃避行

第4部 会津戦争/只見・八十里越 奥会津の福島県只見町叶津(かのうづ)と新潟県三条市吉ケ平を結ぶ八十里越という峠道がある。実際の距離は約8里(約32キロ)だが、1里が10里に思えるほど道が険しいことか


「命の種もみ」

長岡城が落城し、藩士、市民など約2万5千人が八十里越えを通り、
約300戸の只見へ避難して来ました。
水害で食料供給が絶たれていた只見地区。
地元代官の丹羽族(にわやから)は食料調達に奔走するが万策尽き、
「十分な食料を提供できない責任は自分にある」と自害しました。
代官が、それ程の覚悟だったのだと農民は心動され、飢饉で僅かに残してあった翌年ぶんの種もみまで提供して越後からの避難民の飢餓をを回避しました。

※ 新潟TV制作の「丹羽族'にわやから」の物語。





この記事で気になったことがあります。

只見町文化財調査委員で町史執筆者の飯塚恒夫さん(83)は「想像を絶する混乱だったはずだ。そんな中でも責任感を失わず、越後人を救った只見の親切心は『命の種もみ』として語り継がれている」と話す。
一方、
女性、子どもを含め大勢が避難した長岡藩は「足手まといになる」と自害することの多い武士の世では異例に見える。河井継之助記念館(長岡市)の稲川明雄館長は「長岡藩は幼児も生き延びさせるようお触れを出している。死を美化せず、恥を忍んでも生き抜いて再起を図ろうとする発想は現代的だ」と指摘する。


只見町の文化調査委員の飯塚さんは、代官 丹羽族の死で村民たちが翌年の種もみまで提供した。代官の丹羽族も村人たちも、混乱の最中 責任感を失わず越後の人々を救った、と話す。

ところが、長岡市の河井継之助記念館長の稲川館長は、長岡藩は死を美化せず生き抜いて再起を図ろうとする発想は現代的、だと話す。

ちょっと待ってくださいよ稲川館長。
代官、丹羽族(にわやから)が、長岡からの避難の人々の食料を確保ができず責任をとって自害した事は、館長から見ると、死を美化した旧時代的な愚行だったとおっしゃりたいのでしょうか?
どんな戦争も悪いに決まっていますが、戊辰戦争・北越戦争になった経緯を館長もご存知でしょう。会津藩も長岡藩も方法は違うが戦争回避をしましたが、薩長の西軍は許さなかったわけですよね。
「戦争回避(恭順)の条件は、会津藩主 松平容保の首を出せ」ですよ。
藩主の首を差し出すなど武士には絶対にできない条件で、わざと出している。
避けられない仕組まれた、戦争だったわけですよ。
だいいち、すでに鳥羽伏見で戦火はきられてます。
まあ、仮に、会津藩主 松平容保が切腹し、戦争回避ができたとしても「死をもって」ではないですか。

そして、長岡藩だけが「死を選ばず生き延びさせようとした」と言いますが、
会津藩でも、早い段階から藩士だけでなく市民にも会津藩領内へ西軍が入った場合の避難の指図が出されています。士族たちは城内へ、市民は近郷近在へ逃げよ、と。
近郷近在へ避難したのは市民だけなく武家も一緒に避難しています。
会津には古くから、年齢の離れた女性どうしが親戚のような付き合いをする風習があり、
歳上の女性は歳下の女性の婚礼の世話までする間柄でした。
ですから近郷近在の村々には知り合いが居て避難できました。
ただ、急激な西軍の侵攻で大混乱し、逃げきれず約230名の方々が自害しました。

なかでも、家老、西郷頼母家の21名が入城せず自害した悲劇は有名ですが、
自害をした理由は「足手まといにならぬため」などとドラマなどで描かれてしまっていますが、実際には、西郷頼母が白河城での激戦を指揮し約700名の戦死者を出して敗れ、会津城下は戦死者の葬儀が毎日あちこちで行われていました。西郷頼母は免職され会津藩を離れていました。
西郷家の人々は他家のように、おいそれと入城する事ができるような状況ではなかったのです。
武家にとって名誉を汚すことは何よりの恥だったのです。
※ 直木賞作家、中村彰氏の講演会より。

本当に、悲劇です。悲劇ですが、生き延びて、西軍に恥辱された女性の記録が数多く残っています。
輪姦されたうえ惨殺された者、かろうじて生きながらえても妊娠している者も多く、堕胎を試みて多くの女性が亡くなりました。堕胎し生き残った女性たちは、寺の隅に水子を埋め、目印として小石を積み供養しました。それを「小梅塚」「小塚」と呼び憐れみました。村では生き残った女性を匿い面倒をみたといいます。女性どうしが親戚のように付き合う風習があったためでしょう。

会津藩は、藩祖、保科正之公が17世紀には藩士に「殉死」を禁じています。
平穏だった江戸時代、会津藩で「殉死」はありませんでした(他藩ではありました)
それでも戦争が始まってしまったら、逃げても逃げなくても身分に関係なく「死」が身近になってしまうのが現実です。「美化」なんてものではありません。降参したって殺されるのが戦争です。
それは近代でもおなじでしょう。

そもそも、、
和平交渉が駄目なら戦って白黒決めなきゃならない時代背景を飛ばしちゃいけませんよw


ついでに書いておきます(苦笑)

新潟のローカルテレビにこの館長さんが出て話しているのを何度か見ましたが、
あまりにズレている発言が続き毎度テレビを消しましたw
以前から、長岡の河井継之助博物館の稲川館長は素っ頓狂な発言が多いのです。
「河井継之助が嫌いだった」
「自ら戦争をして長岡を焼いてしまった。(河井継之助) 批判されても仕方ない」
極め付きが「只見町史では越後から1万5千人としているが、越後平野で戦っていた同盟軍(東軍)は8000人だから、ちょっとまゆつば じゃないか」などと、新潟県内の講演会などで公然と只見町史を「まゆつば」と発言する始末。

河井継之助の好き嫌いは個人の考えなので、河井継之助博物館の館長であろうが勝手だと思いますが、戦争して長岡を焼いた責任を河井一人に背負わせるのも1万歩譲っても、只見町史を「まゆつばじゃないか」と公然でいうのは、只見町史に失礼ではありませんか?

越後平野から只見へ逃れたのは兵士だけでなく、長岡藩士と家族、農民、町民などです。
当時、長岡藩士と家族だけで約8000人。東軍兵(米沢・会津藩など)が約6〜7000人。
農民、町民だけで約11万人。
仮に、その1割弱が只見へ避難したとしても約1万5千人〜2万人程度だと推定できます。

素人の歴史好きのおっさんが居酒屋で「越後から只見への避難者数、只見町史の数は、まゆつばじゃないか」というのは自由ですが、河井継之助記念館の館長という立場の公人が、公衆の面前で「まゆつば」だと話すには根拠を示さなければなりません。
「越後平野で戦ってた同盟軍(東軍)の兵は8000人だったから」には、長岡藩士と家族、農民、町民の数も入っていない、思い込みのカウントです。

正確な人数など避難してきた長岡藩も、受け入れた会津藩もわかりません。
なにしろ戦争中ですから。
それでも、現場になった只見地域に残っている資料から、推定した人数を只見町史は記しているのでしょう。

そして、ついでの、ついでにw 只見地域の人々の戊辰戦争の農民の話を書いときます。

只見地域の農民たちは山内大学が指揮する「山内隊」に参加し農兵として越後まで行って戦っています。指揮をした山内大学は16世紀まで、只見、金山などの地域を治めた領主の子孫で、農兵として参加した農民たちはその家臣の子孫たちでした。農民といえども何代も侍の血が流れていたのでしょう「先祖様たちが切り開いた土地は渡さん」という思いで越後まで行き戦ったのでしょう。
越後平野には会津藩の飛び地が数多くありました。越後の人々と只見地域の人々は、ずっと交流があったのです。


「死を美化しななった、近代的だった長岡藩」

「只見史の避難者1万5千人は、まゆつばじゃないか」

長岡市 河井継之助記念 稲川昭雄館長。

こういう人物が新潟の歴史関係では重宝されています。。
各市町村に素人の凄い郷土史家が居る会津では(他でも)観衆から突っ込まれまくりですよ。
いやはや、なんとも、、

今年、奥羽越列藩同盟だった土地と、明治政府側だった土地でそれぞれ「戊辰150年」や「明治150年」と位置づけ、それぞれ様々な企画をしている。
「戊辰150年」を掲げる土地では、戊辰戦争と明治維新の歴史的検証が行われています。

長岡市が「戊辰150年」「明治150年」とも掲げない、掲げられない理由の一つが分かった気がしました。先人たちの歴史を伝える人が、これなのだから、しかたないな、、、と。。 ふぅ

おしまい。


昨年、河井継之助の没後150年の法要が河井が眠る長岡市の栄涼寺で行われた。
参列したのは約50名で、河井家の子孫も10年ほど前から参列するようになったという。


住職の齊藤隆信さんは「長岡では継之助を恨む人も多く、かつては墓が何度も倒されたり、ペンキを塗られたりもした」と明かす。だが50年ほど前から、そうした行為は全くなくなった。継之助を主人公とした司馬遼太郎の小説「峠」がベストセラーとなった影響が大きい。
齊藤さんは「小説を読み、継之助を好意的に捉える人が増えたと思う。信念を貫き、徳川家に最後まで義理を尽くし、小さな藩の家老が薩長にたてついた。民を守れなかったのは事実だが、武士としての生き方は評価できる」と語る。

「亡くなった主人(河井家7代目の正安さん)は、どんなに聞いても継之助のことは一切話さなかった」

東京都三鷹市に住む正安さんの妻、河井恵美さん(83)はこう振り返る。先々代の茂樹さんから「長岡を灰にして恨みを買っている。間違っても長岡で河井と名乗るな」と厳しく言われていたという。長岡の法要に参列することもなかった。



50年まえ、司馬遼太郎の「峠」のヒットで、河井継之助のお墓も壊されなくなりました。それでも今なお、長岡を焦土にしたのは河井という風があります。
今年は映画「峠」の撮影が新潟県内で進んでいます。
これを新たな機会として、北越、戊辰戦争、長岡藩、河井継之助とは なんだったのかを再検証する機会になったら良いなと思っています。

最後の機会だと思います。


土地柄は、人柄がつくるという誰かの言葉を思いだしました。。






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